2020年4月19日日曜日

GTC(Gotenyama Triathlon Club) 通信 Vol.2


第一部 Road to KONA. Ironman World Championshipの魅力紹介
トライアスロンレースの最高峰、毎年ハワイ島のコナにて開催されるIronman World Championship2年連続出場の通称プロこと佐々木さんが素人からプロと言われるまでの過程に迫ります。


第二部 メンバー紹介「GTCと私」
ガッキーこと桧垣知宏さん。昨年の大病はどこへやら?。絶好調で、ラン・スイム共にスピードアップ中。その秘策とは何か


 第一部 Road to KONA 佐々木美樹さんがIROMANの魅力を紹介




201810月、ハワイ島コナ空港に降り立った。自分がIRONMAN World Championshipの選手としてここにいることが信じられず、感動で胸がいっぱい、タラップを降りただけで涙が出た。
思えばどちらかといえば運動は苦手だったし、体育は唯一、通知表で2をもらったことがある科目。運動会の徒競走は、タイム別に編成される組の一番遅いところ。中学では器械体操部に入るが、当時から脚力がなかったのか、どうしても片足で踏み切る側方宙返りができず、高校に入ってからはどう頑張っても蹴上がりができなくて退部した。これが人生最初の挫折と思う。

そんな自分がロングのトライアスロンの最高峰ともいえるレースに出ることになるまでを振り返ってみる。
トライアスロンといえば、鉄人と呼ばれる屈強なアスリートが行う過酷なスポーツのイメージ。美しさを追求する競技しかやったことなく、スピードを競う種目には縁がなかった自分がトライアスロンをやることになるとは夢にも思わず、まず始めたのは水泳。友達に「水泳やってれば、おやつに食パン1斤食べても太らないよ」と言われたのがきっかけだった。
45歳の私は自己流の顔出しカエル泳ぎしかできなかった。ダイエットのために泳ぐならクロールをマスターしなければいけない。1年くらいクロールを習い、なんとか息継ぎをしてクロールが泳げるようになったころ、近くのプールで朝練をやっていることを水泳仲間から聞き、2009年7月よりレッツスイム新代田に通い始めた。
サークル練習は初めてで、水泳用語も意味不明だし、どうしていいかわからない。また、こんなに苦しい練習に朝早くから大勢の大人が集まって嬉々として泳いでいることにびっくり。
そして朝スイムには大勢のトライアスリートが参加していた。
3コースで泳げるようになったころ、「泳げるならトライアスロンやったらいいよ!」
笑顔でそう誘われた。けど無理です~!走ったことないし。でも実をいうと昔、自転車好きの叔父に誘われてロードバイクを買って大井埠頭で走ってみたりしたことがあったが、自転車って思ってたよりずっとつらいし、お尻痛いし、ペダルにくっついた靴も怖いし、すぐ乗らなくなっていたという過去があった。(そのクロモリのロードは大事にとってある。)
でも年末にトライアスロン体験キャンプが宮古島であると聞き、ここでお試しだけやってみようと思って参加した。宮古島の坂はきついきつい!全然登れないじゃないの。下りは怖いし。どのくらいブレーキかければいいんですかと聞いたら、下りでブレーキかけちゃもったいないと言われる。えっ!
最終日にスイム750m、バイク15k、ラン3kのミニミニ模擬レースが行われた。スイムのあと、びしょびしょの体のままバイクにまたがって漕ぎ出すと、スピード感が気持ちよく、なんか自分かっこいい!と気持ちが高揚した。そのあとのランがまったく練習してないに等しいのでとにかく苦しくて苦しくて死にそうだったけど、ミニミニレースとはいえ、ゴールの達成感は半端なかった。
一回体験すればトライアスロンはもういいかなと思うかもしれないと考えていたけど、このキャンプの参加者で、5か月後の石垣トライアスロンでデビューしようという話になってしまった。じゃあ石垣までとりあえず頑張ろうと思い、品川に練習に行けばランも練習できると聞いて、レッツ品川にも通い始めた。
スイムのあと大井埠頭でバイクに乗ってからランをするなどの練習もあったが、当時60歳前後の女性にもバイクでついていけないし、ランはもう疲れすぎて走ってるのか歩いてるのかわからない遅さ。
平田先生にも「まずキロ6分で走れるように練習しましょう」と笑顔で言われ、きろろっぷんってなんだろうと思う。ロッカールームに戻ってくるころには疲労困憊、もう着替えるのも億劫で、床に座り込んでいた。トライアスロンの練習すらこなせなかったら、トライアスロンなんてできない、と落ち込んだ。
石垣トライアスロンが近づいてきて、制限時間というものを見ると自分は完走できないんじゃないかと心配になり、平田先生に相談したけど、大丈夫ですよって笑顔で励まされた。
その石垣トライアスロンでは、スイムで初めてのバトルにもみくちゃにされ、死ぬかと思ったけど、1500m27分半くらいだった。レッツスイムの皆には「いつもプールで泳いでるタイムからしたら遅すぎる」と言われ、自分でも遅かったかと思ったのに、後にも先にも自分のOD史上、最速タイムがこのときのもの。
バイクはとにかく上りがのぼりきれるか心配だったけど、意外と40kは早く過ぎ去り、あれ?もうバイクゴール?という気がした。
ランは思ったより速く走れて、3時間切れるかも!と仲間に声かけられ、最後に猛ダッシュ。完走できるか心配していたのに3時間切ることができた。
完走証に「PLACE3」と記されていたが、意味が分からず特に気にしていなかったら、大変!総合3位に入賞してるって言われてびっくり。この年はシチズンの部というJTU未登録者の部があり、速い選手があまり出ていなかったらしい。
そういえば、何か放送で名前を呼ばれていたような気もした。当然、表彰式は終わっていたけど、本部に行ったら台の上に乗せてもらって写真を撮ってもらえ、感動の涙。初出場で女子総合3位って私ってトライアスロンに向いてるのかも!ってすっかり勘違いして、トライアスロンやっていこう!と決めた。
でもこのときはショートまでしか頭になく、フルマラソンさえとんでもない未知の世界なので、ロングはまったく圏外だった。
しかし「フロリダに行けるよ」の一言で、翌月5月のFlorida70.3にエントリーしていた。バイク90kは走ったことなく、多くの人に完走できないかもと言われていた。ちょうどそのとき、ずっと人生インドア生活していた私は、急に屋外で日を浴びたせいか日光アレルギーも発症していた。暖かいフロリダで長袖長ズボンの暑苦しいウェアで、スイムは平泳ぎまじりで、バイクはほぼ全員に抜かれた感じで、ランは歩かないことを目標にどんなに遅くてもゆっくり走り続け、6:50で完走できた。ミドルってこんなに長くてつらいのか、やっぱりロングはありえないなと思っていた。
でも8月には珠洲トライアスロンAに挑戦。上りの苦手な私、大谷峠を登り切ったときは号泣し、なんとか完走。
そして2011年1月に館山若潮フルマラソン初レース。雪の舞う寒い日だったが、3:55でサブフォーを達成することができ、自分でもかなりびっくり。
その後、3月に東日本大震災が起き、自分には網膜剥離が見つかって手術など、大変な時期が続く。6月Honu70.3でハワイ・コナの地を訪れ、ここがWorld Championshipのスイムスタート地点だよと教えてもらうが、こののどかな田舎の小さな湾でそんなすごい大会が?と全然ピンとこなかった。
2012年4月、宮古島ストロングマンで、挑戦することはないと思っていたロングに初挑戦。
3kのスイム59分、バイクでは375人に抜かれまくり5時間54分。バイクを走り切った時点でもう体全体が終わっていて、今すぐ横になりたい疲労感。そこからのフルマラソンは地獄のようにつらくて、なんの罰ゲームだ、もう二度とロングは出ない!と心の中で叫びながらひたすら前に進んだ。ラン5時間12分。
感動のゴールではあったが、その後、過呼吸で救急搬送されてしまった。翌朝も二度とロングには出ないという思いは変わらなかったが、表彰パーティーのあと、仲間と「つらかったよねぇ」など話しているうちに、なぜか来年も出ようかなという気持ちになっていた。
2013年3月、50歳でついにアイアンマンLos Cabos(メキシコ)でフルディスタンス初参戦。ここのコースもアップダウンが多く、バイクで疲労困憊、7時間18分もかかってしまい、バイクのゴールでは安堵の涙が出たくらいだが、ランに入ったら驚くほど体が軽く脚が動く!もう嬉しくて嬉しくて、満面笑顔で応援の人に手を振りながら走った。ラン4:35、トータル13時間35分でアイアンマンになれた。エイジ29人中10位だったが、世界で10位?私速いじゃん!とのんきに思っていた。
翌4月に出た宮古島は海況が悪く初のデュアスロンに。6月に常滑70.3にも出場。どちらもバイクで数百人に軽く抜かれるいつものパターン。順位としてはスイムまあまあ、バイクで大幅に抜かれ、ランで盛り返すという自分のパターンが出来上がっていた。しかしオーバーワークで腸脛靭帯炎になり、バイクもランもできなくなった。
7月に出た屋久島OWS5kでは、順調に泳いでいたつもりがまさかのピックアップ!思ったよりうねりがあって進んでいなかったらしい。故障もあってスイムしか練習できない今、8月の湘南OWS10kまではと心を入れ替え、遅刻常習犯の私が遅刻せずに朝スイムに通った。トライアスロンは3種目あるから故障していても他種目の強化に充てられるのがいいところ。
湘南OWSは10k泳ぎきれるとは思ってなかったが、翌週のIM Japanに向け5kまで泳げればいいと臨み、最下位の47位、3:28で奇跡の完泳を果たした。
2014年5月、スペインの小さな島、ランザローテで行われたIM Lanzalote で落車、鎖骨を骨折して救急搬送。ランザローテはニースに並ぶきつい上りが特徴の難コースだというのに、苦手な上りでも絶対にバイクを降りないぞと無理した結果、頂上付近で意識朦朧となり、そのまま長い下りに入ったため、どこかでカーブを曲がりきれず落車したらしい。命の危険もあったことを思うと、無理をしてはいけないと反省した。
この頃からレッツランの練習会に参加し始めたようだ。トラックのインターバル練習はすごくきつく感じた。11月に大田原マラソンに出るが、鎖骨骨折の手術後、まだ体が十分戻っていなかったようで、何もない平らな道で足がもつれて転倒、顔面を強打し流血の大惨事DNF。
2015年7月のIM Zurich Switzeland はとにかく無理をしないで完走することを目標に、バイクでは止まって補給したりして安全第一を心がけ、13時間37分、エイジ5位でゴール。11月の大田原フルマラソンは3:51でリベンジし、PB更新。
2016年4月のIM South Africaでは、初めてわりとアップダウンのないバイクコースだったためか6:37と初の6時間台でバイクフィニッシュ。スイムからほとんど順位を落とさずランに入り、460人抜いて4:08という奇跡の好タイム。バイクで消耗しすぎなかったのがよかったのかもしれない。12時間27分、ロングの自己ベストを一気に1時間くらい縮めて、エイジ6位。この頃からバイクで大幅に落としていた順位を種目ごとに上げていけるパターンに変わっていった(女子順位S146位→B135位→R77位)。
女子のコナスロットは各エイジにほとんど1つしかないので6位はかすりもしない。しかし南アはチャンピオンシップなのでスロットが多く、50-55歳のカテゴリーに2つ付与されていた。もし上位4人が行かないと言ったら!妄想したけど、あっさり1位と2位の選手がコナを持っていった。
2位の選手との差は48分。うーん、1時間縮めてもまだまだコナは遠いなと感じた。
2017年は、膝裏を痛めてなかなかバイク、ランの練習ができないまま、Liuzhou70.3、宮古島に出場。
故障が治ってから、8月のIM Emilla Romagna(イタリア)に向けて、平田先生にバイクとランの練習メニューを作ってもらうことに。Excelのメニュー表には「Go Go KONA!」とかわいいフォントで文字が踊ってて、嬉し恥ずかし。今まで自主練では、ただ30分走るなどしかしていなかったのが、目標をもってやる練習内容に変わっていった。
IMイタリアでは、スイムが距離が短かったのか1:14、バイクは夢のave30k/h超えまであと一歩の6:10、ランは20kまではイケるんじゃないかと思った4:31で、トータルは自己ベストの12時間8分。自分では大満足なレースだったのに、イタリアで第1回目のレースだったこともあり、ヨーロッパの強豪が大勢参加していたようでエイジは9位と振るわず。コナはまたしても遠のいた。
そして55歳を迎える2018年、エイジが上がる年は一つのチャンス。平田先生は台湾で取れますよって軽くおっしゃるし、過去のリザルト見たら自分が自己ベスト出せばいけるんじゃないか!ってタイムに妄想が膨らむ(しかしこれは暑さで全体にリザルトが悪かっただけだった)。
レッツランモーニングで朝ランの機会も増えていたし、1週間ごとに作ってもらうきめ細かいメニューをこなすように頑張ったせいか、3月のはなももフルマラソンで3:43のPB更新、宮古島では粘りの走りができ、初の入賞、しかも2位と1分差という僅差でエイジ優勝。6月の五島長崎Bタイプでもエイジ優勝、8月のIM TALLINNを迎えた。
エストニアのタリンで初開催のアイアンマン、ヨーロッパから強豪が集まることが予想されたのでコナというより自己ベストを目標にしていた。トライアスロンやっていると世界中の行ったことないところに行けるのが楽しい。ところがフランクフルトで1人前泊してからの飛行機乗り遅れ!人は乗れてもバイクを乗せるスペースが3日後でもないと言われ、もうタリンに行けないかもと諦めそうになる中、他航空会社の乗継便なら行けそうだと親切に教えてもらい、ラトビアで乗り換えて真夜中にタリン到着。当然のようにバイクはロストバゲジ。もうバイクは出てこないだろうと、応援に回ることを覚悟していたくらい。しかし翌日バイクが無事届き、レースに出れるだけでよかったとリラックスして臨むことはできたが、また水温が想定以上に低くて大ピンチ。ここまで低くないだろうとたかをくくってスイムブーティを持ってこなかったことを激しく後悔。
低水温のため多くの選手、特に日本人女子が無念のスイムリタイアとなってしまっていた。私もゾンビのように冷え切って1:30もかかって命からがらスイムアップ。生きて上がれたことを友達と抱き合って喜んだ。いっぱい練習してきたはずのバイクも体が冷え切って動かず飛ばすことができない。ave30k/h超えを目指していたが6:39。ランも暑いうえに古い街並みが残る旧市街を4周回するコースは、坂がいっぱい。4:39かかり、トータルは自己ベストより39分落ちの12時間47分。
入賞もとても望めないと思っていたのに、エイジ2位だよって友達からメッセージが来ててびっくり。
1位のフィンランドの選手は、地元での有名人なのかレジェンドと呼ばれていて、私より1時間近く速い11時間50分!ロールダウンはないだろうと諦めていたのに、タリンの奇跡が起き、まさかの初スロット獲得。1位の選手が名前を呼ばれても出ていかなかったとき、2位の私にスロットがロールダウンされるはずが、「ではこのスロットは40代に回ります」とアナウンスされ、一度はやっぱりコナは無理だったと思ってからのスロット獲得だったので、感動も2倍以上。
トライアスロンやってなければ、こんなに苦しかったりつらかったり、また楽しかったり喜んだり感動したりする経験、なかなかできないだろうと思う。
そして2か月後のコナはすぐにやってきた。エントリーしていたIM台湾は、バイク1周回でリタイアし体力温存、皆の応援に回った(当初は台湾でコナをねらうはずだったが、今回の台湾は強豪集結、レベルの高いレースとなり、もし完走していてもコナはかすりもしなかった)。
台湾から羽田、そのままコナに。入国審査では怖そうな係官に「お前は選手か」と聞かれ、Yes!と答えたら「You are an IRONMAN!」とゴールのお決まりのアナウンスをいきなりサービスしてくれる。コナの町はアスリートであふれていて、どこもきらきらと輝いていて、日本から来た仲間に会えば、コナで会ってる感激に抱き合って涙。泣いてばっかり。
ナショナルパレードやアンダーパンツラン、沖に泳いでいって飲むコーヒー、すべてが珍しく楽しかった。バイクチェックインでは、選手のギアをチェックするカメラマンが大勢レンズを向け、もうアカデミー賞のレッドカーペット状態。1人ずつボランティアがついてくれて、あなたのラックはここよ、タイヤの空気は抜いてね、と親切に案内してくれ、レジストレーションも同じく至れり尽くせり。屋外で行われるカーボパーティは人数が多すぎて、だだっ広い会場なのに座る場所が一つもないくらい混んでいて驚いた。
レースの朝は珍しく緊張マックス!足元がふわふわするくらい舞い上がってしまった。スタート地点まで泳いでいき、立ち泳ぎで待つ時間が長く感じた。大勢の観客が湾を取り囲み、応援してくれていて、その風景を海の中から眺めてるなんて不思議な感じ。いつの間にかスタートの合図が鳴って、コナのレースがいよいよスタート。
スイムは水もきれいでうねりもバトルもほとんどなく、順調にスイムアップ(1:22)。
バイクはコナウィンドを覚悟していたのにほとんど無風!溶岩台地に青い海、広い空がどこまでも広がっていて、ここは天国か?と何度も思った。風がなかったのに意外と時間がかかり6:39。最後のランは暑かったけど苦しくても楽しい!そして日が暮れたら暗すぎて前も足元も全然見えない!絶対にライトを持って走るべきと学ぶ。
しかしゴールが近づいてきて応援の声が聞こえ始め、花道に入ったら雰囲気は一変。もう涙が出てしかたないが、むせるので泣かないようにする。GTCの皆が作ってくれた旗を受け取り、旗がよくなびくように腕を伸ばして、光り輝くフィニッシュゲートへ。
ラン5:05、トータル13時間21分もかかってしまい、デビューのレースとあまり変わらないタイムだったが、初コナは完走できない人も多いと聞かされていたのでよしとする。ゴール後は2人のボランティアが両脇を抱えるようにエスコートしてくれて、フィニッシュエリアに案内してくれた。
トライアスロンは選手より応援のほうが正直大変だと思う。そんな中、日本から平田先生や仲間が応援に来てくれたのは本当に心強く嬉しかった。
個人競技であるトライアスロンだが、練習はコーチ、仲間がいてこそであり、1人じゃできないトレーニングも皆の力で頑張れる。
また、スイム、バイク、ラン、どれをとっても単品では得意といえるものはないのに、3つ続けるとエイジの中では入賞するチャンスがあるのでやりがいも出てくる。
その後、自分に足りないスピードをつけることを中心に特にランのトレーニング、筋トレにも取り組んできた。2019年4月のLiuzhou70.3で2位(PBの5:37:20)、9月のXian70.3でまた2位(スイムなし4:46:24)となり、幸運なことにいずれもロールダウンでコナスロットを獲得。
あまりに幸運すぎて自分が怖かったが、2度目のコナの直前に左臀部に痛みが出て走れなくなってしまった。それでも2度目のコナは、コナウィンドが吹き荒れバイクのタイムは落としたものの、ランは4:31で走り切れ、12時間54分でゴール。
故障は腰椎すべり症を発症していることがわかり、しかも原因は加齢というから残念。
痛みもあってすっかり練習意欲もなくしていたが、故障していてもコロナ禍でもできるメニューのおかげで、復活に向けリハビリ中。

また皆と「たの苦しく」ともに練習したい。今後ともよろしくお願い申し上げます。






第二部
       メンバー紹介「GTCと私」桧垣知宏さん

皆さんこんにちは!GTCの「余計な情報提供担当」、桧垣です。
ラフォーレが使えなくなったところへの新型コロナのダブルパンチで、皆さんにお会いできずに本当に寂しく思っています。お元気でお過ごしでしょうか?自宅での練習は、はかどっていますか?

平田先生から「『GTCと私』というテーマで何か書いて。」というご依頼を頂きました。

練習の参考になるような事はあまり書けませんが、せっかくの機会ですので、特にGTCに入って間もない方々に少しでもお役に立つような、私自身のこれまでの経験を交えつつ、皆様のお暇つぶしになるお話が書ければと思っております。かなり長い文章となってしまったので、本当にお時間のある方、テレワークで暇を持て余している方(?)はご一読くださいませ。

【トライアスロンをやることになったきっかけ】
 もともと高校時代は陸上部で400mハードルをやっていました。なので走ることは得意ではあったのですが、あくまでも短距離ランナー。大学に入ってからは吹奏楽団でトロンボーンとマーチングにハマり、社会人になってからはジャズバンドに入り、そのままずっと走る事とは無縁でした。2005年から2年間米国のボストンに駐在をしていて、翌週のボストンマラソンの準備をしているスタートラインにまで行った事もあったのですが、当時は「ふーん」という感じ。今から思うと「なんであの時走らなかったんだ!?」と、丸監督の出走の話を伺う度にもったいないことをしたな、と思います。

 帰国後、社会人生活も10年を過ぎ、仕事にも余裕が出てきたころに、「フルマラソンって完走出来たらなんか達成感がすごそうだな。」と思うようになり長い距離を走り始めたのですが、最初は15キロも走ると膝が痛くなるような状態。初のフルマラソンは、走り始めて2年後の20103月、佐倉朝日健康マラソンでした。今でもはっきりと覚えているのですが、30キロ過ぎで急に足が止まり、最後、陸上競技場に入ってからは自分よりも30歳以上もお年寄りの方にぶち抜かれたのですね。もうそれがとにかく衝撃で、「なんであんな年寄りに抜かれちまうんだ?!」と。この時の記録が4時間15分、完走はできたものの「悔しさ」しかありませんでした。翌年12月、中国上海でのフルマラソンでも40キロ手前で足が攣り、丸太を担いだ中国人にぶち抜かれ4時間14分。「これは何か目標を設定してそれに向かって練習をしないと、達成感どころじゃないぞ...」と、2か月後に迫っていた東京マラソンで「3時間半を切る」という目標を設定し、猛練習をしてなんとか3時間2953秒、ギリギリサブ3.5で走ることができました。

 その後しばらくは東京の「達成感」に浸っておりレースにも出ていなかったのですが、神戸に住んでいる義理の母に誘われ、2014年に神戸マラソンに出走。この時はハーフあたりまでは自己ベストペースだったのですが、37キロあたりのバイパスに登るところで足が止まり、当時は「応援NAVI」もなかったから、総出で応援してくれていた家族を散々待たせてしまう始末。ポートアイランドでの和太鼓の演奏とロックの爆音にめちゃくちゃ嫌気がさして、「もうフルマラソンなんて二度とやるもんか!」と、心に固く誓ったのでした。

 その後、ジャズトロンボーンも面白くなっていたのでしばらくは走ることもやめていたのですが、大学時代の同期が「最近トライアスロンにハマってるんだよね。今度横浜でレースがあるから見に来ない?」と誘ってくれたのが、2015年の横浜トライアスロンでした。

これがまさに運命の時。私のその後の人生を変えたのは、その時に見た「パラトライアスロン」の選手たちでした。


下半身不随で海からスタッフさんに支えられて上がってくる選手、松葉づえでトランジッションに向かう片足のない選手、そして漕いでいるはずの脚が片方無いのに自転車に乗る選手...あの鮮やかなブルーシートの上で、「不完全」な体で3種目の競技をこなしている選手を見ていたら、あふれる涙が止まりませんでした。
       
「健常者の自分が何故これをやっていないんだ?」
「この人たちがやっているのに、何故今まで自分はやってこなかった?」

 トライアスロンなんて変人のやること、体力バカのやること、よっぽどのドМじゃなきゃ無理、そもそも自分なんてフルマラソンすらもうやりたくない、そんなことを思っていた中で、体の不自由な人が3種目をこなしている、この衝撃の事実が私に突き付けた問いは「何故お前は?」でした。

【トライアスロンデビュー】
 衝撃のパラトライアスロンに刺激を受けた私、しかしながら泳ぐのは得意ではないし、自転車も持っていない。「まずは海で泳げるようにならないと!」と考え、通勤途上の新川崎NASで金曜夜にスクールがあることを知り、早速入会しました。

 その後20162月に大阪で働くことになり、「今年はいよいよトライアスロンデビューするぞ!」と和歌山県で開催される南紀白浜トライアスロン大会に申し込み、家のすぐそばにあったTREKの専門店へロードバイクを購入しに行きました。そこの店長が「トライアスロンやるんやったら絶対に目立つ色の方がええで。白や黒はみんな乗っ取るから探すの大変や。黄色が分かりやすいから、黄色にしとき!」と半ば強制的に買わされたのが、今の愛車です。確かにトランジションで目立って探しやすく、とても気に入っているのですが、今から思うとあの親父がタイガースファンだったから黄色と黒の車体を押し付けられたような気もします...

 初めてのレース、南紀白浜トライアスロンは海がとても綺麗で、ウミガメが眼下に見え、緊張がほぐれたのをよく覚えています。でも自転車は全く遅くてぶち抜かれまくり、完走はしたものの445人中300位、エイジでも80人中58位というレースでした。T1T2の場所も離れていて、終わった後はとてもめんどくさかったのですが、とにかく海が奇麗で泳いでいて楽しかったので、デビューレースとしては選んで正解だったと思います。その後、大阪湾の舞洲では自分の手も見えないような海、横浜も泳いでいてビニールが手に引っかかるような海、セントレアも木更津も九十九里も京都丹波も、その後は汚い海や川でしか泳いでいないので、デビュー戦であの海を泳いでいなかったらもしかしたら嫌になっていたかもしれません。これからデビューを考えている方は、まずは綺麗な海で、とにかく「楽しい思い出」の出来そうなレースを選ばれるのが良いと思いますよ!

GTCとの出会い】
 201612月に東京に戻ってきた私は、早速ネットで近辺のトライアスロンクラブを探し始めます。

 前もお世話になったNAS、大阪でも展開していたアスロニア、他にも青トラ、Team Ken’s, アヤト、サニーフィッシュ...いろいろなチームがある中で目に留まったのが、オーシャン・ナビのページ内の「トライアスロンのレッスンご案内」でした。もうすぐ消えてしまうと思うので、ここに永久保存版として残しますね。

「品川御殿山を拠点にしたスイム・バイク・ランなどアウトドア・スポーツを楽しむトライアスロンクラブです。
ヘッドコーチは御殿山のフミヤこと平田文哉コーチです。本人は言いませんが・・・
平田コーチはアイアンマンハワイ出場8回、2001,2002JTU強化指定選手!
第二回アイアンマンドイツで9時間1839秒というタイムも出しています。
楽しく完走を目指す方から、本格的にトライしたい方まで幅広く対応出来ます。
レッスン代がお得になる「Gotenyama Triathlon Club 」の新規会員を募集中です!
これからトライアスロンを始めたい!とりあえず泳げるようになりたい。
などなどトライアスリートでなくても入会OK
超初心者からベテランまでみんなで楽しく御殿山でトレーニングしましょう!」

「をを、そんなにすごい人が教えているのか。厳しいのかな、怖そうだな。でも御殿山ならば自転車で行けるな。値段も安いな。まずは問い合わせてみるか!」という事で、早速、平田先生にメールをしました。「ほぼ初心者でも大丈夫ですか?」「ランはどこで走るのですか?」「自転車は盗まれたりしないですか?」などなど、まぁとにかくしつこくいろいろと質問をしたことを覚えています。きっと平田先生は「めんどくさそうなのが来るなぁ...」と思ったことでしょうが、丁寧にいろいろと答えてくれました。(自転車に関しては「みんな歩道に停めていますが、まだ盗まれた事はないので大丈夫です。」という、先生らしい大変中途半端な回答でしたが...

 というわけで、まずは体験レッスンデビューとなったわけですが、NASのレッスンは60分だったのに対して1.5倍の90分のレッスン、人数もそれなりにいて後ろからは煽られるし、もうゲロを吐くのではないかと思うくらい辛かったのを覚えています。知っている人は周りに1人もいないし、とにかく50mを何本も泳ぐのが無理!100mなんてもっと無理!

平田先生に「桧垣さん、ちょっと1本、休みましょうか。」と優しく言ってもらい「間引かれ」て、みんながターンをしながら泳ぎ続けているすみっこで、「こうした方がいい、ああした方がいい」と丁寧に教えてもらうわけですが、そんなにすぐにわかるわけでも改善するわけでもない。そもそも言っていることは何となくわかるけど、全然できない。そして全てのセットで間引かれるもんだから、もう情けなくて情けなくて...

 だから、今でも同じような状況にある人を見ると、声をかけてあげたくなります。他の人がどうだったかはわかりませんが、少なくとも「私もそうでしたよ。だからあきらめずに頑張って!」と。

 「こんなのを土曜も日曜もやったら死んじゃう!」とも思いましたし、実際、最初は週末のどちらかしか出席していなかった気がします。一日の練習だけでもう疲労困憊で、精神的にもきつかったのかな。ドリルでは溺れそうになるし、パドルで泳げば信じられないくらい脇の下が痛くなるし...でも毎週行くようになるとだんだん話ができる人が増えていって、運河に行く前にファミマの前でいろいろと話をするようになって、皆さんの顔と名前、そしてあだ名も覚えるようになって、Facebookも登録させてもらって...

月会費を払っているから来ないともったいないし、辛くて仕方ないけどとにかく付いていくしかないから、土曜日に教えてもらったことをまずは日曜日に試す、日曜日に教えてもらったことは平日朝のジムのプールで試す、とにかく体に覚えこませて、繰り返す、繰り返す。スイムだけは根性や気合、筋力だけではどうにもならないので、平田先生が言う事やドリル練習の意味を、いつも「何故?」って考えながら、それを体に染み込ませるように繰り返していったら、少しずつですが泳げるようになっていきました。

この歳になって、成長がリアルに実感できる事ってそれほど多くはないと思うのですけど、水泳はとにかく泳げば泳ぐほど成長を感じられる。それが嬉しくて、気が付けば週末1度も泳がないと体がおかしくなってしまうくらい、毎週御殿山に行くのが楽しみになっていました。

今でもスイムは三種目では一番苦手なのですが、人並みに泳げるようになったのは紛れもなくラフォーレ・フィットネスサロンと、そこに集ったGTCの皆さんのおかげ。だからお世話になったあの場所に、最後に頭を下げて「ありがとう!」とお礼を言えなかったのは本当に残念です。

【ガンの発見】
 2016年の南紀白浜トライアスロンを皮切りに、これまでオリンピックディスタンスのレースには7回、ミドルディスタンスには3回出場しました。ロングにはまだ出場しておらず、9月に予定されている佐渡Aタイプが初挑戦となります。毎年34レースに出場しており、GTCの皆さんの影響で一昨年からはトレイルの大会にも参加、更には再びフルマラソンでの自己ベスト更新も目指すようになりました。

もはやGTCでのトレーニングは自分の生活の一部となり、週末のスイムと高浜運河でのランニング、時折開催されるライドイベント、織田フィールドでの1000m x 20本など、参加できるイベントはできる限り参加するようになっていました。仕事で辛いことがあっても週末GTCのみんなに会って一緒に練習をすれば気持ちをリセットできる、だから仕事も頑張れる、そういうサイクルが出来上がり、腰痛や足の怪我もなくなり絶好調だった、そんな2018年の年末、まさかの事態が起きたのです。

9月の定期健康診断で血便の陽性反応が一つ見られ、2016年にも一つあったことから、産業医の先生が「念のため大腸のCT検査を受けてみましょうか。」と仰ったのですが、10月から金沢マラソン、大田原マラソン、千葉マリンハーフとレースが立て込み、結局1217日になってようやく腸内のCT検査を受けました。検査結果は「2週間後に出る」と聞いていたのですが、2日後に「すぐ病院に来て!」との連絡。結果、大腸に3.5cmの腫瘍があり、診断書には「リンパへの転移可能性あり」との文字も見えました。3.5cmと言えば手の親指くらいのサイズ...「悪性か良性かはまだわからない」とは言うものの、自覚症状も全くなく「なんで自分が?」と、とにかく目の前が真っ暗になりました。

 「すぐに手術が必要」ということで、1222日に近くの昭和医大病院へCT検査の結果を持っていき、1228日に内視鏡検査、年明けから各種検査をして125日に手術、その後最低3週間は入院が必要、というスケジュールが告げられました。

 翌日の1223日は、前の年に参加してとても楽しかった新代田から高尾山までの40キロランニングの予定でしたが、さすがにショックで寝ることができず、話が重すぎて誰にも伝えられず、平田先生にだけは事実をお伝えしてキャンセルをさせてもらいました。

 1228日に内視鏡の検査を受け、その直後の問診で言われたのが「99%ガンです。レベル3、リンパへ転移の可能性もあります。腫瘍を含む直腸を切除しつなぎ合わせるので、仮に回復しても便を貯める場所が狭くなり、トイレが近くなる人が多いです。マラソン等の運動は難しくなるかもしれません。」という衝撃の言葉。これはもうトライアスロンのレースには出れなくなりますよ、と告げられたのと同じで、人生のドン底につき落とされた気分でした。自分からトライアスロンを奪ったら、何が残るのか...2019年のお正月はまさに「最悪のお正月」でした。

 ところが、111日に年末の検査結果を聞きに再び病院を訪れた際に、先生から驚きの言葉がありました。「内視鏡で切り取った組織細胞、4つとも良性ですね...」と。いわゆる「腺腫」という異形の良性腫瘍である可能性があり、内視鏡でその腫瘍だけを摘出して、精密検査の結果が良性であれば腸を切り取る必要はないとのこと。急遽スケジュールが変更され、118日に腫瘍を摘出、顕微鏡での細胞の検査結果を1か月以上待つこととなりました。

 結局、225日の検査報告では「ガンは実際にはあったけれどもレベルゼロ、腫瘍は全て切り取れており、転移はしていないので完治している」との事でした。まさに9回裏逆転サヨナラ満塁ホームランとなったのです!


 練習は全くできておらずに撃沈しましたが、33日の東京マラソンにも出走することができ、GTCの皆さんには完走をお祝いして頂きました。入院中にもGTCメンバーからたくさんの励ましの言葉を頂き、過去に闘病生活があったことを教えてくださった方々もいました。また、1月末にはガン封じで有名な御嶽山へのトレラン練習会でお守りも買ってきて頂きました。レベルゼロのガンで済んだのは、きっとこのお守りのおかげだと思います。そして、今も元気に練習ができるのはあの時お参りをして頂いた皆さんのおかげだと、勝手に思っている次第です。 
あと半年、発見が遅かったら、確実に腸の切除だったとの事なので、皆さんも健康診断で何かあったら、小さな事でも必ずかかりつけの医師の先生に相談するようにしてくださいね。

【今、思う事】
 もしもあの時、腸を切除していたらトライアスロンどころではなかったかもしれない、と思うと、どこでどのような形であっても、「トレーニングができているだけでもありがたい」と思います。皆さんと一緒に練習が出来ないのは本当に寂しいですが、今こういう時期だからこそ出来る、違った練習もあると思いますし、SNSで皆さんの様子を伺い知る事も出来る便利な世の中ですから、世界的にも我々のクラブにとっても歴史的なこの難局を何とか乗り切って、また皆さんと元気にお会いする日が来るのを、心待ちにしています。

最近、丸Jさんと「STRAVA」というスポーツ専用SNS内に、GTCのクラブを作りました。皆さんの練習記録が一覧で見れるバーチャルのクラブで、現在20名の方々にご参加頂いています。ほとんどのGPSデバイスアプリと連携ができます。こんな時期でもそれぞれのやり方で頑張っている皆さんに凄く刺激を頂いていますので、宜しければ是非ご参加下さい!
 

分からないことがあれば、遠慮なく聞いてくださいね。


やまない雨はない、日はまた登る、また絶対に一緒に練習出来る日が来ますから、それまでは歯を食いしばって、そして何よりご自身とご家族の健康に留意して、再び元気にお会いいたしましょう!

2 件のコメント:

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  2. 読みやすく一気読みしました。壮大すぎて感想も長文になってしまいそうなので端的に。色々感心しました。涙はこらえられましたが"丸太かついだ中国人”は吹き出しました。トライアスロンが人生を豊かにしていて素敵です。作文お疲れ様でした!感謝。

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